スタディ - 留学・英会話
My High School Experience

海を渡った高校生
斎藤匠 (さいとう・たくみ) 君

 

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斎藤匠
(さいとう・たくみ)

栃木県芳賀郡出身
Glen Eagle Secondary School 11学年在学中・16歳

英会話はほぼマスター、今は中国語に挑戦!

匠君を留学へと導いたのは母だった。「これからは英語ができた方が良いから留学を」という母の熱心な意見に、初めはあまり英語に関心がなかった匠君も、徐々に留学へと心が動いた。匠君にとって、海外へ出たのはこれが2度目。中学2年生の時に、地域の中学生海外派遣事業の試験に受かり、アメリカ・サンフランシスコで2週間滞在した。いろいろな施設を見学したり、実際に英語を勉強したりという楽しかったその体験が、匠君の英語に対する見方を一変、「もっと英語を話せるようになりたい」という気持ちが強まり、留学を決意した。

 

「日本の高校へは行かない」と言う匠君に、初めは半信半疑だった友人や担任の先生も、匠君の決意を知るにつけ、応援してくれるようになった。中学を卒業してからカナダへ行くまでのブランクは、留学後に備えてアルバイトに精を出した。まだ下に弟が二人もいるなか、女手ひとつで留学へと送り出してくれる母の負担を、少しでも軽減したかったからだ。そして中学卒業後、匠君はカナダへ来た。2004年の8月のことである。日本では特に英語の勉強をしたことはなく、学校での授業のみ。その頼みの中学で習った英語も「全然役に立たなかった」。英語力は、ほぼ白紙の状態でスタートした留学生活だった。

 

留学先は、母の職場の同僚である台湾人から紹介を受けた。ホストファミリーも、その知人の兄弟の家庭だ。匠君は、その台湾人一家の元で、1年余を過ごした。バンクーバーから東に位置する郊外都市、コキットラム市である。豊かな自然に囲まれ、秋には鮭の遡上も見られるベッドタウンだ。本格的な韓国料理があり寿司がおいしいことでも有名で、フランス系カナダ人も多く住むインターナショナルな地域でもある。栃木県の郊外出身の匠君にとって、「コキットラムは大都会」。交通の便も良く、どこへ行くにも便利で住みやすいと匠君は語る。

 

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ホストファミリーは時には厳しく、家族のように良くしてくれて不満はなかったが、10月から匠君はホストファミリーの元を出て、知人の大学生とダウンタウン近くのアパートを折半して借りている。月々母の肩にかかるホームステイ代を軽減するためだ。その分、学校は遠くなり、通学に1時間かかる。朝6時に起き、7時のバスに乗る生活だ。食事も節約のため、当然自炊。しかし、自由になっただけ、自己管理能力も問われる。同居する大学生に誘われて遅くまでダウンタウンで遊ぶこともあるが、決して学校は休まず、遅刻もしない。「誰も起こしてくれる人がいないので、逆に自然と起きられる」。

 

やればできる。なんとかなる」が信条の匠君。したこともなかった料理もできるようになるなど、日本にいるときより数段逞しくなった。英語も想像以上に上達した。また、学校では外国語として中国語をとっている。友だちに中国系が多いことで、彼らの話すことを理解したくなったのがきっかけだ。「日・英・中と3ヵ国語話せるようになりたい」と、カナダで見つけた新たな目標を目指している。

 

「やればできる。なんとかなる」が信条だが、1番辛かったのは、留学当初、英語が全くわからなかったことだという。「行けば何とかなるだろうと準備をせず、高をくくっていた」ことで苦労した。1学期と2学期の時間割が両方掲載されている時間割表の見方がわからず、校内で困り果てていたことがあった。通りかかった中国系の女子生徒が声を掛けてくれ助けてくれた。それを機に、彼女の仲間とランチを共にするようになった。

 

1ヵ月もすると、英語に慣れてきて、みんなの話すことはだいたい理解できるようになった。それから友だちとの遊びを通して、数ヵ月もすると会話も問題なくできるようになった。「友だちといることが楽しくて」という匠君。放課後もずっと友人たちと過ごしたことが功を奏したようだ。特に“先生”となった韓国系の友だちは、匠君がわからなくても根気強く説明し続けてくれ、「すごく勉強になった」という。友だちから学んだ生きた英語のおかげで、ヒヤリングとスピーキングはたった1年の留学とは思えないレベルだと太鼓判を押されているが、グラマーには一般の留学生同様、苦労している。

 

残り1年半余の留学生活を終え、無事卒業したら帰国予定の匠君。カナダでの進学は考えていない。小学校半ば頃からの、「俳優になりたい」という夢があるからだ。留学前にもオーディションに受かっていたが、渡加が決まっていたため、断念した。「もし俳優がだめだったら通訳に」とも考えており、今は中国語の勉強に余念がない。3ヵ国語を操る俳優として活躍する日も、そう遠くないかもしれない。

 

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