連載コラム記事
  カナダに住む ことばと

ワーキング・ホリデー追跡日記


和田 典子(わだ・のりこ)

横浜市出身、1970年生まれ。上智大学文学部史学科卒。出版取次会社、弁護士事務所、外資系銀行等勤務を経て、2003年夏よりカナダ・バンクーバーへ留学。現在、サイモン・フレイザー大学(SFU)で通訳者養成講座を受講中。趣味は料理と、紅茶を片手に時代劇(和物・洋物問わず)を見ること。

「コレクティブ・メモリー」
日本の常識、カナダの常識

私たちが会話や文書で自分と同じ文化圏に属する人とコミュニケーションする際、様々なことが「すでに了解されている事項」として処理されている。しかし別の文化圏の人に対しては、そうはいかない場合もある。例えば、冬休みといえば日本では12月末から新年松の内までというのが一般的だが、カナダではクリスマス前後から元旦までの期間を意味するのが一般的だ。カナダではクリスマスは大事な行事だが、元旦には宗教的な意味がなく、2日から平常通り仕事が始まる。私も日本で外資系企業に勤務していた時は、「ミスターXXはもうクリスマス休暇に入っていて不在です」と、12月中旬に欧米のオフィスから連絡を受けては、「日本支社は1月5日ごろまで休みでだれもいません」と返事を出したものだった。通訳者ともなればなおさら、そうした「文化によってことなる常識」に常に敏感でなくてはならない。

「コレクティブ・メモリー」って何?
大学での通訳実習を通じてそうした「文化的常識」の重要さを改めて認識させられることが多い。その際に鍵となるのが、「コレクティブ・メモリー(Collective Memory)」という言葉だ。一言では訳しにくいが、「共有する記憶」…(共同体にいる人たちの心の中に共通して存在し受け継がれていく思い)、という意味の言葉だ。
例えば先日、デパートの老舗であるシアーズを実習で訪れた時、私たちを迎えてくれた担当者は、「シアーズは百貨店の代名詞として、昔からずっとカナダ人のコレクティブ・メモリーの中に存在し続けてきました」と説明したので、私は「ああ、きっと東京の人が三越や伊勢丹に抱く思いと似ているのかな」と理解した。こういう知識は通訳者にとりとても大事だ。例えばカナダ人が「シアーズにクリスマスの買い物に行ってね…」と発言したのを通訳する場合、発言者の脳裏に浮かんでいるかも知れない、綿々と引き継がれてきた慣習に対するもろもろの思いを察しつつ訳すことができたら、聞き手に発言者に対するより近しい思いを感じてもらうことができるのではないだろうか。

共有される記憶と歴史
言葉が想起させる「共有される記憶」が共同体の歴史認識と結びついている場合、事情はもっと複雑かつ繊細になってくる。
たとえば「終戦の日」や「戦没者」という言葉は、戦後ずっと後に生まれた私にも、真夏の8月15日正午のイメージに集約される記憶を思い起こさせる。 一方カナダでは、終戦の日に相当する「戦没者追悼日(リメンバランス・デー)」は、第一次世界大戦に焦点があてられた記念日で、第一次世界大戦が終結した11月11日となっている。
大英帝国内の自治領であったカナダは連合国側で参戦し、ヨーロッパ各地の激戦地で多数の死傷者を出し、後から参戦したアメリカよりも実は犠牲者数は多かった。払った犠牲の大きさから、時のカナダ政府は、英国の一部としてでなく、一国として終戦講和条約やその後結成された国際連盟に参加する権利を主張し、その地位を勝ちとったので、カナダのナショナリズム形成にひじょうに大きな役割を果たしたと言える。
そんな訳で今だに「グレート・ウォー(大戦)」と言えばカナダでは第一次世界大戦のことを指すのだ。11月11日には第一次、第二次の両大戦、朝鮮戦争、その後の各紛争における国連平和維持活動でのカナダ軍の犠牲者すべてが追悼されるが、一ヵ月くらい前から、街角には退役軍人の福祉を行う慈善団体の人々が募金活動に立つ。それと共に、募金をするともらえる赤い羽根ならぬ赤いポピーの造花を胸につけた人を、街中で見かけるようになる。戦没者追悼日の当日には、各地の追悼式典がテレビ中継されるし、報道番組も過去の戦争特集を組む。
ひと口に「終戦の日」や「戦没者」といっても、この言葉が想起させるもろもろの「共有される記憶」は、日本人とカナダ人ではずいぶん違うのだ。

通訳者は「共有される記憶」の収集人
「共有される記憶」は共同体によって様々であるから、その違いに思いを配慮しないまま通訳するのでは、通訳者は単なる翻訳機械と変わらなくなってしまう。
「戦争の頃は辛かった」という発言でも、その裏に潜む記憶を汲み取らなくては発言者のメッセージを充分に伝えることはできないし、訳語の選択にも違いが出るだろう。

通信技術の発達によってこれだけ世界が小さくなり、他文化への接触の機会が多くなった今日、「共有される記憶」への思いやりは通訳者に限らず、全ての人に求められるようになってきているのかも知れない。
異なった記憶への配慮なしに自分なりの認識のみを通そうとして、他文化圏の人に対する理解に齟齬(そご)をきたしてしまう危険は、通訳者でなくても充分にある。違う共同体に属する者同士が同じ記憶を共有することは不可能でも、お互いの記憶を尊重したうえで、新たな共通の土俵を作り上げていくことはできるはずだし、そうすれば相互理解を深め、争いを避けることもできると思う。 とりわけ、多文化間の話し合いを円滑に進めるための技術者である通訳者にとって、文化によって異なる「共有される記憶」に敏感であることは、高い言語能力をもつと同じくらいに大切な技能である。また、そうした技能を求められることが、通訳という仕事を一層面白く、やりがいのあるものにしているとも思う。

日々遭遇する、日本人の常識とは異なる様々な「共有される記憶」を、通訳者としての自分の引き出しに収集していくことができるのは、外国で通訳を学ぶ最大の利点の一つではないかと思う。