人間というものは真空の中に生まれ育つのではなく、必ずある具体的社会環境のなかに生まれ育つものである。この具体的社会環境というのはどこでも同じということではなく、かなりあるいは大いに異なるところがある 日本という国の日本人家庭に生まれ育てば、細部の違いは別としてだいたいは日本的社会環境に育ち、そこでの慣習に慣れ、そこでの価値観を身につけるのである。しかしこの日本的社会環境というのも地域によってまた階層職業によって違っていて、東京と大阪とではかなり違うようだし、そもそも家庭によっても違っているのは、結婚してみると夫が育った家庭と妻が育った家庭環境が違うことから違和感が生じてそのことで夫婦喧嘩になったりする。こういう細かいことを除けば、日本的社会環境はだいたいは大同小異である。 本稿で私は「日本的」社会環境と表現しているのであるが、一般の日本人は、自分たちが生れ育った社会環境が「日本的」であるという認識はあまりなく、テレビ番組で見て知っている(つもりの)アフリカやニューギニアやエスキモー社会などはかなり違うが、そういうところを別とすれば、人間の住んでいる社会環境がどこもだいたい同じことだと、決めてかかっているようである。だから人の好みや趣向もだいたい似たようなものだろうと思っている。そして次のような日本人的感想を平気で言えるのである。 (1)日本の米は世界一おいしい。 しかし、こういった判断が世界のどこにでも通用する普遍性をもつと思ったら、とんでもないことであり、そういう認識なくこんな発言を繰返しているのはいい気なものであり、私などこういう発言を聞くと恥しくなってくるのである。 ここまで本稿を読んでくださった読者のなかには、なぜ先の(1)(2)(3)(4)のような発言がおかしいのかと不可解に思っておられる方も少なくないと思うから、説明を加えてみたい。先のような日本人の発言がある一方、訪日あるいは滞日諸外国人のかなりの人は、全く別の感想をもっている。いかに対照的なものかを示すために以下に引用してみよう。 (一)日本の米は粘ばり気があって好きになれない。 こういう全く反対の価値判断がある時、一方の判断が正しく、他方の判断は間違っていると決めることはできない。正誤を決める客観的基準がないからである。 もう一つ例を挙げてみよう。 外国人が日本人にレストランや家庭に招かれて、牛肉ステーキやデザートに日本のリンゴが出た時、「オー、デリシャス!」などと言っているのが普通である。これを真に受けてやっぱり日本の牛肉はすばらしいのだとか、日本のリンゴはすばらしいのだ、と思ったら、それは日本人にありがちなあまりにも無邪気な行動と言わざるを得ない。外国人の知人とともに私も一緒に招待を受けて、彼らが「デリシャス!」と言ったのを聞いた後で、二人きりになって帰路についた時、私は「さっき、デリシャスと言ったけど本当にそうだったのか?」と訊いてみたことがなん回かある。すると彼らは「いや、本当は好きでなかったけど、お世辞を言ってあげただけだよ」と笑って言うことが多いのが現実である。 こういう喰い違いは、いわゆる「文化の違い」ということである。これは理屈の問題ではなく、生れ育ってきたためそれに慣れ親んでしまった結果のことと言えよう。 こういう慣習上の相違の具体例は列挙したらきりがないが、せっかくだから、外国人が日本で感じる違和感と、日本人が外国で感じる違和感の例を、あと数例挙げておこう
こういう文化上の違いはなるだけ多く心得ていたいものである。日頃できるだけ外国の人といろいろなことを話し合い、たがいに知識を交換したり論じ合えば、生活様式を観察していろいろなことを知ることができる。 さらに、他文化について知るだけでなく、私たちは自国文化の価値観について説明できるだけの教養を習得し、他文化の人々に発信して欲しいものであり、それが可能な外国語力も、当然のことながら取得しておきたいものである。 |