連載コラム記事
  ワーキング・ホリデー追跡日記 ことばと

 

 

和田 典子(わだ・のりこ)

横浜市出身、1970年生まれ。上智大学文学部史学科卒。出版取次会社、弁護士事務所、外資系銀行等勤務を経て、2003年夏よりカナダ・バンクーバーへ留学。現在、サイモン・フレイザー大学(SFU)で通訳者養成講座を受講中。趣味は料理と、紅茶を片手に時代劇(和物・洋物問わず)を見ること。

冬休みの日記

サムライたちの静かなコミュニケーション
12月×日 前から気になっていた映画「ラスト・サムライ」を見る。海外に来て半年たつと、銀幕に日本の風景が出てくるだけで体中に懐かしさが込みあげてくる。キワモノ映画だったらどうしよう、と少し恐れてもいたが、蓋(ふた)を開けてみると、この映画を実現させたかった製作者の誠実さが感じられたし、明治初期の日本の時代考証が予想以上にきちんとなされていた。そのため、多少の荒唐無稽(こうとうむけい)さには目をつぶって最後まで集中して観ることができた。脇役で英国人通訳者が登場し、彼の怪しげな日本語がきちんと通じる設定になっているのには苦笑したが、これは「自分が通訳する時は気をつけよう」、という反省材料にする。

最も印象的だったのは、日本人同士のコミュニケーションの描かれ方。例えば、武将である父が致命傷を受けた息子を捨てて退散する今生の別れの場面で、二人は万感の思いを込めてじっと見詰め合うだけで、せりふは一切無い。抱きあったりすることも無い。極めて抑制された、控えめなボディ・ランゲージで、思いを伝えあう様子が描かれている。まさに「以心伝心」と言うか、日本人の特徴である、静かで控えめな伝達の仕方をよく表現していた。私は、もしこれがアメリカ人父子の別れだったら、もっと「アニメイティッド:Animated」(ジェスチャーや表情たっぷりな演技)になるのだろうかと考えながら、何となく周りの観客を見渡していた。感動的な場面だったのでだれもが静かに見入っていたけれど、この静的なコミュニケーションの仕方が西洋人の目にどう映るのかを、すごく尋ねて見たい気がした。

「加軍復仇」???野球言語の不思議
12月×日 
冬休みとはいうものの、沢山ある宿題を片付けたり、ボランティアでしている翻訳のために部屋にこもる日も多い。このボランティア翻訳は、以前大学でゲスト講師に来たカナダ日系人博物館の前館長さんが機会を与えてくれたもので、博物館で将来展示する資料を日本語から英語に下訳する作業だ。博物館では今年、第二次大戦前に大活躍していたバンクーバーの日系人野球チームの特別展を企画しており、私たちが翻訳しているのは、主にそのチームの日本遠征を伝える日本の新聞雑誌記事だ。

そのため、まず1920年代(大正時代)初頭の日本語(しかも野球用語)をきちんと理解しなくてはならない。80数年も経つと日本語もかなり変化していて、一度読んだだけでは意味が取れない部分もあり、時には日本語から日本語への翻訳が必要になってしまう。
例えばある記事の冒頭に、「加奈陀戦記続報・加軍復仇(ふっきゅう)」とあり、一見すると戦争の記事かと思ってしまうが、これはカナダ・チームが負けた試合のかたきをとって対戦成績を1−1にした、ということなのだ。最初は頭をひねったが、日本のスポーツ新聞が大リーグについて書く時、マリナーズやドジャーズを「マ軍」「ド軍」と標記することを思い出して納得した。改めて大正時代の記事を見直してみると、「打線を封鎖し去って」「三振に薙(な)ぎ倒し、葬り去り」「大飛球が外野に刺され」「打線の猛襲」「会戦」「閉戦」……なんだか源氏と平家の争いみたいだ。今でも一回戦、二回戦とか、1軍2軍などと言うし、なぜ日本のスポーツ用語にはやたらと戦いに関連した言葉が使用されるのだろう。英語だと野球の試合は普通「ゲーム:Game」だけれど、ゲームにはもともと楽しみや娯楽という意味がある。同じ野球の試合にも、戦いの概念と遊びの概念をあてはめる日本語と英語の違いを、いつかもっと深く追求してみたい。

自衛隊は「Self Defense Force」?
1月×日
新年が明けて冬休みも残りあと少し。たまには日本のニュースも追わなくては、と深夜の日系ケーブルTV局でNHKのニュースを見る。自衛隊イラク派兵の話題が多い。カナダはイラク戦争に参戦していないが、アメリカは隣国だから、イラクでアメリカ兵の犠牲が出るたびにCBC(カナダ国営放送)で大きく扱われる。主要な戦闘の終結が宣言された昨年5月以降も500人近いアメリカ兵が戦死しているから、そういうニュースに日々接していると、「自衛隊を派兵しても戦闘はしない」、という日本政府の説明が空(うつ)ろに響く。ちなみにこちらで英語圏の二ュースを聞いていると、日本の陸上自衛隊は端的に「Japanese Army」と呼ばれることが多い。通訳学生としては「Ground Self-Defense Force」と正式名称で呼びたくなる、そうするとカナダ人からは、「でも実際のところArmyなのだろう」と言われる。名称に惑わされて物の本質が見えなくなることがあるが、これもそんな例の典型だと思う。日本の外から見てみると、実際、自衛隊は軍隊以外の何でもない。しかし日本にいると、自衛隊という名称がそれを軍隊として見なすことを、人々の日常の思考から締め出す役割を果たしているのではないかとも思えてくる。たかが名前、されど名前。何をどう呼ぶかという言葉の選択は、その言葉を選んだ人々の物の考え方に強く影響されている。二つの言語の間に「A=B」という不変の定訳はない、訳語の選択は実は相対的なのだということを考えさせられる。