ライフ−連載コラム記事
  カナダに住む ことばと ワーホリ追跡日記

和田 典子(わだ・のりこ)
横浜市出身、1970年生まれ。上智大学文学部史学科卒。出版取次会社、弁護士事務所、外資系銀行等勤務を経て、2003年夏よりカナダ・バンクーバーへ留学。現在、サイモン・フレイザー大学(SFU)で通訳者養成講座を受講中。趣味は料理と、紅茶を片手に時代劇(和物・洋物問わず)を見ること。

口承文化と通訳

大学の実習で、ブリティッシュ・コロンビア州内陸のオカナガン渓谷へ小旅行に行った。オカナガン地方はカナダ唯一の乾燥地帯と言われる。太陽がさんさんと降り注ぎ、南北に長いオカナガン丘陵地帯にワイン用の葡萄や果樹園が広がる様は、地中海地方に来たような錯覚を覚えるほどで、カナダの自然の多様性を強く認識させる。ここには、現在主流を占めるヨーロッパ系カナダ人が入植してくるずっと以前より、先住民族<オカナガン・ネイション>の人々が3500年前から暮らしてきた。今回の実習の目的地の1つは、湖畔の南端の町ペンティクトンにある、先住民のための教育文化施設「エナウキン・センター」だった。

エナウキン・センターでは、若い世代にオカナガン語や伝統文化を教えるリチャード・アームストロングさんが迎えてくれた。これまで通訳実習で様々なスピーカーに遭遇したが、そのなかにはカナダの多文化性を反映して、英語が母語でない人も多数いた。移民の国カナダでは、公用語の英語と仏語の他に、祖先の出身地の言葉を操る人も多いが、先住民の場合、事情はより複雑であり、彼らから英語で話を聞く機会に恵まれたのは格別の体験だったと思う。

カナダ全土に幅広く分布する先住民族は、そのなかで更に多くの語族・部族に分かれ、それぞれ独自の文化をもっている。しかし19世紀半ば以降、カナダ政府の同化政策により先住民の子どもたちは寄宿学校へ送られ、伝来の言語を使うことを厳しく禁じられたため、多くの部族で口承により代々伝わってきた固有の文化が途絶えてしまった。先住民の権利回復運動が盛り上がりを見せ始めた1960〜70年代になってやっと、エナウキン・センターのような施設が各地にできるようになった。両親の断固たる決断のおかげで寄宿学校へ送られず、古老たちから部族の伝統文化を直接学ぶことのできた希少な存在であるリチャードさんは、教師になりたての頃には自分よりも遥かに年長の生徒たちを教えることが多かったそうだ。

リチャードさんはこう語った。
「英語学者のなかには、文字をもたず口承を重んじる私たちの伝統をとらえて、劣った文化と誹謗(ひぼう)する人もいます。しかしオカナガン族の文化では、文字より話された言葉の方が神聖なのです。書面上の契約より口頭の約束の方が効力が強いと考えられているのです。それが可能なのは、私たちの言語がとても明瞭・精密にできているからです」「例えば、英語で『Go and walk around the room(部屋を歩き回りなさい)』と言われたとします。私たちの言語からすれば、この文章は不完全で、こう言われても歩き出すことはできません。壁に沿ってまっすぐ歩くべきなのか、それともぶらぶらと歩くのか、歩くのは部屋の内側か、外側か、はっきりしないからです。私たちの言語ではそうした点までひじょうにきっちりと表現します。そのため、情報を口頭で伝える場合にも、一字一句違わず正確に伝承することが可能なのです」。

文明の発達に文字は不可欠と考えてきた側からみれば、これはまさに正反対の概念であり、この違いをヨーロッパ人に優劣の差だと決めつけられたことが先住民文化の受難の始まりだったと言える。音声言語の方が優勢というのは私にとってもなかなか理解しにくい考え方だったが、オカナガン族の昔の住居を模した室内で車座になってリチャードさんの話しを聞き、その世界に引き込まれていくうちに、音声で伝えられる言葉のパワーをどんどん感じ、何だか納得できる気になった。

リチャードさんはまた、こうも語った。
「語り部が訪ねてきて、近隣の部族での出来事などを皆に話し聞かせたとします。それを聞いた人が、次に同じ話を別の人に話すとき、元の話を一言も変えることは許されません。なぜなら、私たちの言語は明瞭で揺るがしにくいものであり、また聞き手全員がその場で同じ話しを聞いた証人であって、物語はその全員で共有されるものだからです。後で誰かが勝手に話を変更してはならないし、仮にそんなことが起こっても、すぐに露見してしまいます」。

考えてみれば、通訳という作業も、口頭でメッセージを伝えるという点では口承文化の一部と考えることができる。異言語間では文法や文章構造の違いのため、厳密な逐語訳が可能であるとは限らない。しかし通訳の基本は起点言語(原文)の内容を目標言語(訳文)の枠組みのなかでできるだけ自然に表現し、そのうえでメッセージを正確に伝えることである。究極の通訳とは聞き手に第三者(通訳者)の声を聞いている事実を忘れさせ、あたかも話し手から直接話し掛けられているように感じさせることを目指すものだと言われている。つまり通訳者も語り部のつもりにならなくてはならないわけだ。無論、訳文の内容に主観を加えることは許されない。その点だけをとらえて、通訳は他人の言葉を訳すだけの作業と軽く見られることもあるが、異文化間の「口伝え」の担い手として考えれば、その役割は重要なのだ。

先住民の豊かな口承文化について誇りをもって語ってくれたリチャードさんからは、話し言葉の力を信じること、また通訳という仕事にも文化の口承者としての誇りをもつように励ましてもらった気がする。カナダの先住民と、日本の通訳者。一見かけ離れているようでいて、ある意味で似通った文化の営みに携わっているのだと発見できたのはうれしい収穫だった。

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