ライフ−連載コラム記事
  カナダに住む ことばと ワーホリ追跡日記

和田 典子(わだ・のりこ)
横浜市出身、1970年生まれ。上智大学文学部史学科卒。出版取次会社、弁護士事務所、外資系銀行等勤務を経て、2003年夏よりカナダ・バンクーバーへ留学。現在、サイモン・フレイザー大学(SFU)で通訳者養成講座を受講中。趣味は料理と、紅茶を片手に時代劇(和物・洋物問わず)を見ること。

通訳は物騒な職業か?

「通訳という仕事の魅力は何ですか?」と、尋ねられることがある。私はたいてい「事前の準備を通じて、いろいろな分野の勉強ができること。スピーカーの、尊敬すべき人柄や仕事への熱意などに触れられること。自分の通訳を通じて聞き手がスピーカーの話に感動したり、納得したり、さらに深く考えたりしてくれること」と答えている。別に建前ではない。観光旅行のガイド、ビジネス上の会議やプレゼンテーション、学術的な講演などいろいろな通訳の場があり、自分の通訳の出来不出来に一喜一憂することはあるけれど、やり遂げた時に感じる「通訳者でよかった」という達成感は、上に述べたような理由に集約される。うまくいった仕事のあとで、英語側と日本語側の両方から感謝の言葉をもらった時などは、準備や本番で消耗しきっていても、その疲れを忘れてしまうほどうれしくなる。

では通訳者の仕事はいつでも楽しいかというと、そうも言えない。例えば、私にはまだ未経験の分野だが、法廷通訳はとてもストレスのたまる仕事と言われる。いかめしい裁判所という環境で、利害の対立する同士の緊張関係をひしひしと感じながら、一語一句きわめて正確な通訳をしなければならないから、たしかに通訳のなかでも最難関と言えるだろう。大学の実習でBC州裁判所の刑事法廷を傍聴したことがあるが、たまたまその時は1985年に331人が犠牲になったインド航空機爆破事件の公判だった。容疑者に対して犠牲者の遺族が復讐を企てる可能性もあるので、3人の容疑者は、ものものしく設置された分厚い防弾ガラスに囲われた一画に着席しており、通訳者たちも同じ「ガラスの檻」に入って、検事と証人のやりとりを容疑者に同時通訳していた。「通訳しなければならない内容も仕事の環境も、これほど辛いものはないだろう」と、その時の法廷通訳者には心から尊敬と同情を感じたものだった。ちなみに、現在も進行中のこの裁判では、最近、通訳者の訳語の選択に証人が異論を唱えて、それが審理の争点になるということが起きた。ただでさえ深刻な内容の仕事のうえに、自分の通訳の水準に疑問を差し挟まれるとなっては、通訳者にとってはまさに受難としか言いようがない。

通訳の出来不出来は、通訳者の力不足の場合もあれば、通訳者を使う側の準備や認識不足の場合もあるので、一概に通訳者を悪者にはできないけれど、通訳の出来によって交渉が不成功に終わることもあり、ひどい場合には巨額の損失が出たり、人命に影響が及ぶ場合もあるから、決して気楽な職業ではない。冗談で言われる「通訳者が戦争を引き起こす」という言葉がどこから出たかは知らないが、通訳の歴史を振り返ってみれば、通訳者が最も必要とされ、通訳技術の発達の飛躍点ともなってきたのは、多くの場合、戦争の事後処理の国際会議だった。初めて国際会議で通訳が使われたのが第1次大戦後のベルサイユ講和会議で、本格的な同時通訳導入は第2次大戦後のニュルンベルグ裁判と東京裁判から始まった。現在でも、テロ対策の国際会議や、人道に対する罪を裁く国際司法裁判所などでの通訳者の需要は絶えないので、惨事がおこるたびに需要が増える因果な商売、という側面もあるのだ。

災難や惨事の処理に立ち会うだけでなく、通訳者であるということだけで面倒に巻き込まれることもある。2つの言語の仲介者という立場は、反面、どっちつかずで信用ならない存在ということにもなりかねないからだ。ビジネス交渉などで、当事者双方との板ばさみに悩んだり、「どっちかに肩入れしているのではないか」などとあらぬ勘繰りを受けることもある。不穏な状態が続くイラクで武装勢力に人質にとられたり、命を奪われたりしているイラクや外国の民間人のなかには通訳者も少なくないことなどは、その極端な例だ。この場合、通訳者が中立の立場という理屈がもはや全く通用せず、武装勢力にとってみれば連合国側に仕える敵と思われてしまっているのだ。そんな状況は一刻も早く無くなってほしいけれど、最悪の事態に対する覚悟が通訳者にも必要ということは言えるだろう。

実は最近私も、通訳者を志すがゆえにいらぬトラブルに巻き込まれた。英国のある放送局が日本語放送通訳者を募集していたので、応募してみたところ、運良く英国での試験と面接に招かれた。2日間ですべての試験と面接を終えて、ロンドンからバンクーバーの空港へとんぼ返りした時のことだ。入国審査を終えたら、税関で荷物審査を受けるよう指示されてしまった。カバンの中身を全部出され、税関職員にいろいろ質問された。「ロンドンには3日しか居なかった?いったい何しに行ったの」「就職試験?どこの会社?」「宿泊先は?」長時間のフライトで疲れていたので、細かい質問に対し少々ぶっきらぼうに答えていたこところ、職員が私のカバンから速記用ノートを取り出したのを見て、嫌な予感がした。国際ニュース翻訳者の採用試験だから、最近の時事用語を日英2カ国語で押さえておかなくてはならないと、自分で作った単語帳がそのノートだったのだ。「イラク」「アルカイダ」「アメリカ大統領選」などの項目別に、単語がびっしり日英対照で書かれたノートを見て、案の定、税関職員の顔つきが変わった。「それ、説明が必要ですよね?」。恐る恐る言うと、「…上司を呼ぶので少し待ってください」と冷たい反応。その後、結局2人の税関職員を相手に、求人に応募した顛末から、放送通訳者の仕事内容、どんな試験をしたか、面接に着ていったスーツと靴まで見せて、決して怪しい人間ではないと説明し、税関で1時間も費やす羽目となった。やっと解放された時には疲労困憊し、「通訳者でよかった」とはさすがに言えない心境だった。

そういう訳で、やり甲斐もあれば危険も伴う通訳という職業。私がそれを選択してしまったのが賢い決断だったのかどうかはまだ分からないが、退屈しない人生になることだけは、スタート時点から既に保証済みのようだ。

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