ライフ−連載コラム記事
  カナダに住む ことばと カナダ横断旅日記  

竹内英理奈(たけうちえりな)
三重県出身。1976年生まれ。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒。高校で英語教師を務めた後、2004年4月に来加。現在、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーのサイモン・フレーザー大学(SFU)で通訳養成講座受講中。趣味は休日の散策。ストレス解消法はとにかく体を動かすこと。

恥じる心−奥ゆかしさか、不面目か

紅葉が美しいバンクーバーの10月、芸術の秋を堪能したいと、バンクーバー国際映画祭に出かけた。ハリウッドのスターが訪れるトロント国際映画祭のような派手さはないものの、ドキュメンタリーが中心で、なかにはひじょうに質の高い作品を見ることができるとの評判だ。私が見に行ったのは「珈琲時光」(英語題Cafe lumiere)という作品で、黒澤明監督と並び世界で高く評価される小津安二郎監督の生誕100周年を記念し、小津監督に敬意を表す形で、台湾人監督ホウ・シャオシェン氏と日本の松竹株式会社によって製作されたものである。小津監督といえば静かで淡々とした日常をきめ細やかに描写することで知られているが、ホウ監督が同様の撮り方で、しかも現在の東京をどう表現するのかに興味があった。

映画館に着いたときにはすでに長蛇の列。席を見つけるのも一苦労という状態だった。普段、バンクーバーではこれほどの混雑を見たことがないことからしても、人々の関心の高さがうかがえた。個人的には、黒澤監督風のダイナミックかつドラマチックな作品が好きなのだけれど、日本を離れて生活しているせいだろうか。あるいは英語を聞くことに少し疲れているせいだろうか。いずれにせよ、ただ淡々と続く日常の静かな描写がとても心地良く感じられたのが、自分でも不思議である。静寂は時に雄弁であることを改めて感じることもできた。

映画の舞台となるのは主に東京の下町。主人公の女性をめぐる何気ない毎日の情景が最初から最後まで延々と続く。特別な出来事があるわけでもなく、登場人物が声を荒げたり、大笑いしたり、泣いたりすることもない。効果音やバックミュージックもない。一歩間違えば単調で退屈な作品になってしまうところだが、少ない会話や微妙な間合いが観客一人一人の想像力をかき立て、不思議な余韻を残す。

さて、この映画のなかで私が気になった箇所がある。娘(主人公)の下宿先にやってきた母親が、大家さんにお酒を借りに行く娘と同行し、挨拶するというシーンだ。平然としている娘に対し母親は、「お母さん恥ずかしいわ」を何度も口にする。この時、館内は笑いに包まれた。
私は映画の内容よりも、なぜカナダ人が笑ったのかが気になった。そこで後日、私は、この場面と、「お母さん恥ずかしいわ」の字幕、「I'm ashamed」について、先生と友人の日系カナダ人女性に尋ねてみた。カナダ人が笑った理由は、「I'm ashamed」にあるらしいからだ。

もともとshame(ashamedは、shameから生じた語)という単語は良くない意味合いで使われ、社会的な恥、つまりその本人だけでなく他の人も恥だと感じさせるような恥ずかしさを意味する言葉なのだという。もっと言えば、精神的な重荷のようなものらしい。ひじょうに深刻な恥と言えるだろう。字幕を見たカナダ人は「大げさなお母さんだ」と笑ったかもしれないし、あまりにも古いステレオタイプ(固定観念)通りの日本人的発言だったために笑ったのかもしれないということだった。また、もともとカナダにはそれほど恥の概念は浸透しておらず、人前で格好悪いところを見せたくないという思いは日本人ほど強くないのだそうだ。「お母さん恥ずかしいわ」には、embarrassedのほうが適しているという。個人的な恥ずかしさを表す語で、「気恥ずかしい」、あるいは「気がひける」くらいの意味で使うことができる。決まりの悪さやとまどいなど、私たちが普段よく感じる恥ずかしさである。

日本文化、また社会を語るうえで重要なキーワードの一つとされている恥の意識。
日本について書かれた本のなかでも特に有名な「菊と刀」の著者である文化人類学者ルース・ベネディクトは、日本を「恥の文化」であると分析した。日本社会は他人からどのように見られるかという他者志向がひじょうに強いというのである。日本語には「恥を知れ」、「恥も外聞もない」、「恥さらし」など、恥という言葉をつかった表現も多い。確かにこれらの言い方は明らかに自分志向ではなく、他人志向だ。この本は1949年に発行されており、それ以後の日本人の価値観や考え方は大きく変化したため、今日的な視点では時代錯誤感も否めないが、それでも今なお、ベネディクトの指摘は鋭いように思う。恥じる心は奥ゆかしさや間接的な表現となって、無意識のうちに日本人の言動に溶け込んでいると思うからだ。

それにしても、恥という言葉一つとってみても、翻訳された言葉は、どこまで原意を伝えられるのだろうか。言葉の背後にあるとてつもない時間や歴史は説明可能なのだろうか。長い間培われてきた感覚、概念、暗黙の了解などは言葉だけでなかなか伝えうるものではないと思う。しかしそれでも言葉に頼らなければならない。ここに大きなジレンマがある。

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