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通訳・翻訳

ガマン?創作?迷訳?

どんなに外国語に精通した人でも、訳すに訳せない単語や文章はいくらでもあるだろう。言葉は、まずその国の文化があって、その文化のなかで生活している人々の生活のなかから生まれてきたものだから、違った文化をもつ国には一致する言葉がなくて当たり前だ。
例えば、「お疲れ様でした」「よろしくお願いいたします」「腹を割って話そう」などは、日本人なら良く使う言葉だが、欧米にはこうした言葉が生まれるきっかけとなるような風習がない。したがって一致する言葉もなく、簡潔には訳しようがないのだ。
「お疲れ様でした」には、労をねぎらう"いたわり"の感情が込められている。「よろしくお願いいたします」からは、頭を下げて相手に頼む状況が目に浮かぶ。 「腹を割って話そう」には、"人間誰でも話せば分かる"という単一民族ならではの共通意識が流れている。いずれも、日本ならではの言葉なのだ。
こうした単語や文章を訳す時は、その意味合いに最も近い表現方法でガマンするしかない。

近い意味合いのものが見つかる場合は良いが、それすら適(かな)わない文章もある。例えば、手紙の文頭に書く挨拶文だ。
「益々ご発展のこととお慶び申し上げます」・・・・
そのまま訳そうとすれば、何時間も四苦八苦した挙句、何とも意味を成さない"迷訳"が出来上がるだろう。こうした文章は、前後の文章にマッチした表現で文を創作して仕上げるか、原文を全く無視して、訳す言語の国の習慣に基づく慣例文に置き換えるしかない。

ともあれ、翻訳という作業は難しい。
翻訳に携わったことがある人であれば、自信をもって仕上げたつもりの文章でも、時を経て良く読んでみると、日本語として不自然であったり、意味が分からない文章であったりしたことを発見した経験があるだろう。
誤訳がなく、文章として意味を成し、いかにも翻訳文であるような仕上がりになっていなければ、訳文としては合格だ。ところがこれが簡単なようで、簡単ではない。

合格点をもらえるだけの文章に仕上げるのですら難しいのだから、"名訳"と言われるような翻訳ができるようになるには相当な修行が必要だ。"名訳"は、原文に忠実でありながら原文からひとり立ちして、それ自体が新しい命をもっている。豊かな知識と膨大な情報をもち、優れた想像力がなければ到底できる作業ではない。

政治家は通訳泣かせ

通訳には、同時通訳と逐次通訳がある。
同時通訳は、話し手の内容を聞きながら同時に通訳するもので、通訳者はヘッドホンを通して話を聞き取り、聴衆はイヤホンのついた小型受信機で通訳の内容を聞く。逐次通訳は、話し手が区切りながら話し、区切ったところで通訳者がそれまで話した内容を通訳する。前者は会議などで良く使われ、後者は会談などに向いている。

通訳は翻訳と違って時間に余裕がないため、翻訳能力に加えて、機転が利き、記憶力に長け、舌も良く回らなければ務まらない。特に同時通訳はひじょうに高い技術を要するもので、かなりの経験者でも、文章の一部を省略していたり、話し手が話さなかったことを加えていたりすることがよくある。聞き手は通訳なしでは話し手の言葉がわからないので、饒舌な通訳ほど腕が良いと思いがちだが、実際はミスだらけの通訳という場合もあるのだ。誤訳、省略、創作などがなく、聞く人の耳障りにならないよう正確に通訳できる人は、そう多くはいない。

ところで、いくら腕が立つ通訳でも、話し手の話す内容が意味を成さないのでは訳しようがない。例えば、政治家の答弁だ。
「あれはその問題をそれなりに考え、どうこうするのではなく、前向きに見つめていく所存だ。この点、皆さんのご理解を賜りたい」・・・・・・
この手の話は、どんなに通訳ががんばっても、聴衆の「ご理解を賜る」わけにはいかないだろう。

話は飛ぶが、言いたいことの筋道を立て、できるだけ簡潔にまとめた日本語の文章を書く練習をすると、英語の上達に役立つと思う。その時、文章はできるだけ短く区切ったほうが良い。こうして仕上げた文章と、何も考えずにつらつらと書き綴った文章をそれぞれ英訳してみると、一方は訳しやすく、もう一方は比較にならないほど訳し難いがことがわかる。同じプロセスで、英会話や英作文でも言いたいポイントをまとめて文章にしてみると、より"通じる"英語になっているはずだ。