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篠原幸子
静岡出身。短大を卒業後、2年間のOL生活。1997年9月7日渡加。カモーソン・カレッジを経て現在はUniversity of Victoriaで女性学を専攻中。
卒業論文:従軍慰安婦問題

専攻課目である女性学への私の熱は冷めることなく、順調に4年生を迎えた。
卒業するには、個人リサーチ(日本の大学の卒業論文に相当する)を仕上げなければならない。私はとても熱しやすく冷めやすい典型的なふたご座であるため、4ヵ月間かけて行う卒論の題材を決定するにあたって慎重に慎重を期した。

教授が考え方の柔軟な人だったこともあって、卒論のテーマは女性に関することであれば何でもよかった。女性問題と言っても、数え切れないほどあるが、私は自分がクラスでただ一人の日本人であるという理由から、日本の女性問題に的を絞った。さまざまな日本の女性問題をリサーチしていくうちに、従軍慰安婦問題が私の注意をひいた。以前、クラスでこの問題を扱った時に、恥をかいたことも、この問題に取り組もうと思うきっかけになった。先生が、「幸子、日本の従軍慰安問題を知っている?」(英語で従軍慰安婦のことをComfort Womenと言う)と尋ねたが、私は知らないと答えた。先生は、「日本では従軍慰安婦問題はタブーだからね」と微笑んだ。先生はそのまま講義を続行したが、自分の知識のなさへの恥ずかしさで顔を真っ赤にしたのだった。

まず基本的な知識を身につけようと、従軍慰安婦問題に関する文献を読みあさった。従軍慰安婦とは第二次世界大戦時に日本兵の犠牲となった女性のことである。主にその女性たちは当時日本の植民地であった韓国や中国などにあった慰安所に連れて来られた。そして1945年に終戦を迎えるまでの間、彼女たちは無理やり日本兵の性の捌(は)け口となったのだった。

それでは、なぜ私はこのような国際的な問題を知らなかったのか?それは1991年、従軍慰安婦であった韓国のKim Hak Soonさんが名前を公表して日本政府に賠償金と謝罪を求めるまで、日本政府が従軍慰安婦の存在自体を否定していたからだった。そのため、従軍慰安婦問題が日本の中・高等学校の教科書に記載されることはなく、テレビや新聞でもほとんど報道されていなかった。その後、日本政府は韓国および諸外国のプレッシャーもあり、従軍慰安婦の存在自体を認めたものの(1993年)、未だに公式には賠償や謝罪がなされていない。

私は卒論の焦点を、「なぜ日本政府が従軍慰安婦の存在を認めていながら、賠償や謝罪が行われていないのか?」に絞った。
日本政府は、1965年の日韓基本条約で日本が韓国に相当な額の賠償金を支払ったことによって戦争問題は解決した、条約締結時に従軍慰安婦問題が議論に挙がらなかったことや賠償金が従軍慰安婦の方々に払われたかどうかは日本の関知するところではないという立場を貫き通していた。私は日本政府の態度に驚くと同時に、その態度が現在の日本と韓国の関係に深い影を落としていることも学んだ。

そんな矢先、バンクーバーで「第二次世界大戦から学ぶ教訓」(Canadian Conference Preventing Crimes Against Humanity: Lessons from the Asia Pacific War (1931-1945)) をタイトルにしたコンフェレンスが開かれることを耳にした。その情報によると、韓国から従軍慰安婦の方もいらっしゃるとのこと。早速、主催者に連絡をとり、インタビューの依頼をし、許可もいただいた。従軍慰安婦の方が韓国人ということもあって、私の韓国人のボーイフレンドであるサムに同行を頼んだ。待ちに待った当日、突然、インタビューがキャンセル・・・。フライトの疲れがキャンセルの理由だった。ところが、私の目の前で韓国人の学生たちがその従軍慰安婦の方にインタビューをしているのを見て、私は大きなショックを受けた。

「私が日本人だから?」「過去の経験から日本人が嫌いなのか?」いろいろなことが頭をよぎった。もし従軍慰安婦の方が私のインタビューを日本人という理由に断られたとしても、彼女の過去を考えればそれは当然のことだったのかも知れない。しかしその時の私には彼女の立場を考える余裕はなかった。インタビューを断られたショックと彼女に対する失望に、ビクトリアに帰宅後3日間何ものどを通らなかった。

その状態を救ってくれたのが教授、アナ・リーだった。
「そのことも卒論に書いてみたら?」
彼女の一言は卒論を半分投げ出していた私に希望を与えた。もし私が日本人ではなかったら、インタビューを断られた理由を裏の裏まで読むようなことをしただろうか?「きっとお年だから長旅に疲れたのだろう」ぐらいで、深く考えもしなかっただろう。私は自分のことしか考えてなかったのだ。相手の立場で物を考えなくてはいけないリサーチャーの立場にありながら、私は自分の卒論がうまくいかないことをインタビューができなかったせいにしていたのだ。

日本を離れてから4年間に様々なことを学んだが、この時ほど自分のわがままさに嫌気がさしたことはなかった。私のインタビューを何度も頼んでくれた主催者の方、通訳として同行してくれたサム、そして私のむちゃくちゃな理由付けを怒ることなく理解して、そしてアドバイスしてくれたアナ・リー。この場を借りて感謝の意を表したい。2003年4月、いろいろな人の協力を経て私の卒論:Reclaiming Silent History: Korean Comfort Womenが完成した。