ライフ−連載コラム記事
  カナダに住む カナダ横断旅行日記 言葉と Hello Canada

竹内英理奈(たけうちえりな)
三重県出身。1976年生。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒。高校で英語教師を務めた後、2004年4月に来加。現在ブリティッシュコロンビア州バンクーバーのサイモンフレーザー大学(SFU)で通訳養成講座受講中。趣味は休日の散策。ストレス解消法はとにかく体を動かすこと。

冗談はつらい!

通訳者の力量を映し出す冗談

通訳の実地訓練のなかで、苦手意識を強く感じるものの一つに冗談がある。先日、講演者が、「もし私が冗談を言った時に、皆が笑うか笑わないかで通訳がうまくできているかどうかが分かる」と茶目っ気たっぷりに語ったが、まさにその通りである。冗談を上手に訳せない場合、笑いのエッセンスが伝わらないばかりか、話に盛り込まれた講演者のサービス精神も伝わらないだろう。講演者としても、冗談を言ったつもりが、聞いている人に笑ってもらえないために、困惑することもあるかも知れない。単純な冗談ならまだしも、機知に富んだ、少しひねりの入った冗談は、私自身が理解するまでに時間がかかるため、周りの人が笑ったあとに私がようやく理解して、笑うタイミングを逃したり、私一人で笑っているという状況になってしまうということもしばしばだ。後日先生やクラスメートに説明してもらうまで、何が面白いのか、分からないことすらある。

サーカスティック(皮肉)な笑いのセンス
ところで、カナダ人のユーモアの特徴として、Sarcastic(サーカスティック)という表現がしばしば使われる。サーカスティックというのは皮肉を含んだ笑いで、自分や他人を客観視する、観察的かつ嘲笑的な笑いのセンスである。カナダ人は意外なようで実は笑いのセンスに長けている人が多い。それはコメディアンが多いことからも明らかだ。ハリウッドのコメディ俳優の代表格であるマイク・マイヤーズやジム・キャリーもカナダ出身で、この他にもアメリカ人と思われている有名なカナダ人コメディアンは多い。

通訳現場での冗談
さて、サーカスティックにならないまでも、カナダ人の講演には冗談が入ることが多いのだが、冗談を上手に訳す技術は、努力だけでマスターできるものではない。瞬時に頭をひねって考えなければならないからで、ひらめきやセンスというものも重要だ。
ではどうすればうまく対処できるようになるのかと言うと、これといって決定的な方法はないらしく、とっさに感が働くようになるまで、経験を積む以外ない。以下、今までに印象に残っている冗談の例を3つ、直訳バージョンと、工夫して訳したバージョンの両方を挙げてみる。

例1
「私はひざに関節炎があるのだけれど、時間には柔軟だよ」(ひざが関節炎により硬化しているのと、時間の調整に関しては凝り固まっていないことを掛けている。) 少し工夫して訳すと、「ひざは関節炎のせいで硬化しているけど、時間には柔軟なほうだよ」となり、はるかに分かりやすくなる。

例2
「どのように行動すべきかを知らず、自分の行為が悪いことだとは知らなかったという愚かな人がいるという事実があるために法律があるのです。このため法律は一般的、理性的という条項を設けているのです。」(明らかなセクハラ行為をして訴えられたにもかかわらず、『法律に反する行為だとは思わなかった』と主張した男性の事例を説明した、女性弁護士の冗談。) この場合、「法律とは、一般的、理性的に考えて悪いことが分からないおバカさんに、してはいけないことを前もって教えてあげて、『知らなかった』と言わせないためにもあるのよ」とした方が彼女の機知に富んだ言い方を伝えることができる。

例3
「カナダ・インペリアル(帝国)銀行とカナダ・コマース(商業)銀行は合併にあたって、非独創性な名前を付け現在に至っています」(自行の沿革について説明した銀行員の冗談。) これが、「カナダ・インペリアル銀行とカナダ・コマース銀行は合併して現在のカナダ・インペリアル・コマース銀行という、想像力のかけらも感じられない名前となり、現在に至っています」と訳されると、スピーカーのユーモアを伝えることができる。
直訳しても面白いものはそれで良いのだが、少しひねった訳をしないとうまく伝わらないことも多々あるのだ。

言葉で人と人の架け橋となる責任
なぜここまで冗談にこだわるのかというと、会話中にカナダ人が笑っているのに私は笑えないという、なんとも寂しい思いを何度もしている個人的な経験のせいでもあるが、決してそれだけではない。それは先生がよく言うことなのだが、通訳によって伝えるものは決して話の内容だけではないという根本的な責任である。それは人柄の魅力すらも通訳者が選ぶ言葉、言い回しで決まってしまうという大きな責任というべきもので、講演者がその場の雰囲気を和ませようと放つ冗談を、話の筋に関係ないからといって軽視すれば、せっかくのスピーカーの心配りも伝わらない。つまり講演者の人柄を無視してしまうことになる。
コミュニケーションとは、相互が分かりあってこそ成り立つ。人と人の架け橋となることが役目である通訳は、この当たり前の大前提を常に忘れないようにしなければならないだろう。