沖朋奈(おき・ともな)さん 沖朋奈さんの職業は、多くの日本人女性の憧れのフライト・アテンダント。1998年に採用されて7年。「まさか自分がフライト・アテンダントになるなんて思いもしなかった」と、沖さんは振り返る。 バンクーバーに一目惚れ! 沖さんは、鎌倉で生まれ育ち、高校卒業後アメリカへ2年間語学留学。帰国後は都内にあった、カリブ海専門の旅行代理店に勤務した。仕事でツアーに同行し、日本とカリブ海を行き来する生活が2年ほど続いた。1995年、「ものすごく楽しかった」その仕事を辞めて、カナダへワーキングホリデーへと旅立った。本当はアメリカへ行きたがったが、アメリカには働きながら長期滞在する術がない。「隣のカナダなら、アメリカへ行けるかもしれない」。そんな軽い気持ちでカナダ・バンクーバーへ降り立ったが、「即恋に落ちた」。 雲の上だった職業に合格 バンクーバーでは日系の旅行代理店に勤務した。ギフトショップでも働き、充実した日々を過ごして1年後に帰国。滞在中、バンクーバーだけでなく、"カナダ人男性"とも恋に落ちた沖さんは、翌年、結婚のために再渡加した。そして再び旅行代理店やショップで働くようになった。
人生で1番勉強した研修の日々 就職後、2ヵ月に及ぶトレーニングが始まった。各機種の勉強、非常時の訓練、機材のドアの開閉方法、社員としての自覚に対する講義など、難しい内容が連日続く。「ネイティブの訓練生の倍は勉強した。家に帰ってからも勉強、人生のなかで1番勉強した」というハードな日々の後は、実地研修。まだフライト・アテンダントの数には入らないとはいうものの、実際に乗客もいる現場である。「ものすごく緊張した」研修初フライトでは、食事のサービスなどの助手を務めたが、細かい指導は受けていなかったため戸惑うこともあり、古参スタッフから罵声を浴びることもあった。また、実地研修は口答試験の場でもある。沖さんは数回の研修フライトで合格、晴れてフライト・アテンダントとしての資格を手に入れた。 デビュー・フライトは母国へ フライト・アテンダントとしてのデビュー・フライトは、なんと成田へ。その便のパーサーが人望の厚い日本人で、いろいろと助けてもらい、緊張の初フライトも無事遂行できた。
勤務は国内中心、スタンバイも エア・カナダ社には、バンクーバーだけでも約1700人のフライト・アテンダントがいる。うち、日本人は160人ほど。雇用の必須条件は「英語の他にもう1ヵ国語話せること」。フライト先の希望は出せるが、実際には大勢いるシニア(勤務年数の長いスタッフ)が優先されるので、新参者の希望は通らない。沖さんもまだ格付けは下の方で、国内線勤務が中心だ。それでも、スタンバイ(人数不足など、緊急時の待機要員)として国際線にもずいぶんと乗っている。しかし、朝3時に起こされたり、通知を受けて1時間以内で空港まで行かなければならないなど、スタンバイの条件は厳しい。給与は時間給で、実際の飛行時間分しかもらえないが、一般の職業に比べ、悪くない。休みが多いのも魅力だ。日本へも無料で帰国できるし、家族を招待することも可能だ。 夢は生け花の師範 今、沖さんはダウンタウンに独りで暮らしている。たっぷりある余暇は、趣味のローラー・ブレード、テニスなどに勤しんだり、生け花や陶芸、ヨガを習いに行ったりと充実している。カナダへ来てから"和の心"を意識するようになったという。朝、自分のために抹茶を点(た)てることもある。料理も得意。「ゆくゆくは自宅でパーティーを開き、自作の皿に料理を並べ、自作の湯飲みでお茶を点てる生活がしたい」と、沖さんは語る。
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