スタディ - 留学・英会話
Ritsumeikan at UBC.

立命館・ブリティッシュ・コロンビア大学
ジョイントプログラム・レポート:11

 

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アジア太平洋大学
アジア太平洋学部3回生

藤原良子(京都出身21歳)

クラスの半分が留学生という特殊な環境に惹(ひ)かれて入学。大学では沖縄伝統芸能エイサーサークルと岩手県小本伝統芸能七頭舞サークルに所属し、伝統とアイデンティーについて学ぶ。同時に教育にも興味をもち、ゼミでは芸能と子供の感情への影響について
研究。趣味は映画鑑賞、読書、三線(沖縄の三味線)。

モントリオール美術に触れて

12月初旬からの冬休みを利用して1週間、ケベック州モントリオールへ旅行した。
美術や音楽などモントリオール独特の文化に触れてみるのが目的だが、モントリオールについての知識は授業で学んだ簡単なものだった。しかし、実際に訪れてみて、自分の価値観や意識が大きく変わったと感じるほど、意義深い旅になった。

 

まず、モントリオールの街で最も印象的であったのは、町中に点在する教会の数の多さと、建築としての質の高さだった。モントリオールでは、近代的なビル街の中に、突然、古色豊かな教会が数多く当たり前のように現れる。人々の生活が宗教と密接な関係を保っていることを象徴するようで、モントリオールにある美術館の作品からも、その点を顕著に感じた。過去から現代に至るまで、数多くの作品の中で題材として多く取り上げられているのはキリスト教(カソリック)に関するもので、宗教画以外の現代美術作品でさえも、宗教の影響を受けている。作品の中には、神を信仰したものから皮肉ったものまで幅広く、宗教自体がモントリオールの人々のとって馴染みのある、身近な題材であることは明らかだった。

 

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モントリオールに、私は、京都で感じる感覚と近いものを感じた。そこに住む人が信仰しようとしまいと、宗教に関係した建物、美術、景色、言葉などが、人々にとって大変身近で親近感のあるモノとして、町中に存在している様子である。

 

私は京都出身であるが、無宗教だ。宗教に対しては否定的でも肯定的でもない。しかし、今回モントリオールで多くの教会を周ったことで、深く感動したことがある。それは、「信じる」行為から生み出された美術、建築、音、雰囲気などの素晴らしさだ。どの宗教にも言えるだろうが、人は信じることによってこんなにも多様で美しいモノを創り出せるものかと、感激した。例えば、教会のステンドガラス一つを取り上げても、飾られている時計一つ取り上げても、細部にまで行き届いた思いが感じられ、大変美しいものばかりであった。これらの作品は、報酬や名声などの見返りではなく、誰かに対する「感謝」や「思い」によって作られたモノが多い。そうして作られたものは人種、国、言葉、宗教の枠まで超えて、人の心を打つものなのだと強く感じさせられた。

 

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私は今回の旅の直前までさまざまな矛盾に悩んでいた。その矛盾が、生活する上で大きな障害となっていた。また、自分がこれから生きていく上での目標を見失っていた。
例えば、他人との付き合い方においても、人を思いやり、「人の為」と考えて行動したのにもかかわらず、相手が喜ばなければそれは偽善だと思っていた。
勉学においては、がむしゃらに努力しても自分の力量が足りずに上手く行かないだけでなく、要領の良い人に追い越されることもあり、フラストレーションを感じざるを得なかった。

 

しかし、モントリオールで様々な美術を見ていくうちに、最も単純な「好き」という気持ちや、「信じる」、「感謝する」などの、最も大切であることがすばらしい結果を生み出す土壌であることを再確認したのだ。

 

他人との付き合いも、見返りを求めるのではなく、自分自身の「他人を思う気持ち」が何よりも必要だし、学業や将来の目標においても、たとえ遠回りになっても「これをしたい」と思うことに専念することが最も必要なのだ。これを忘れていたから、現実に柔軟に対応できず、他人の目を気にして現実は複雑なのだと誤解して、前に進めなくなっていたのだ。

 

目の前にある障害と思われる事柄も、考え抜けば最も単純な気持ちで解決することができたのだと感じた。アインシュタインの言った、「混乱の中に単純を見つける。争いの中に調和を見つける。困難の中にチャンスがある」という言葉が、今、理解できたと感じる。 自分の抱える問題も、将来の問題も、社会の問題も、一番必要なのはいつでも基本に立ち返ること。問題や困難を回避するのではなく、その問題の中にこそ自分への、そして社会への答えはあるのだと感じることができるようになった。

 

あと4ヵ月で私は帰国し、就職活動をしたり、さらに勉強をしたり、様々な現実に直面する。しかし、問題はいつも自分の内にあり、実は単純な変化で解決できることなのだと学んだと思う。自分が納得できてはじめて、他人すら巻き込めるようになるのだ。

 

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