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篠原幸子
静岡出身。短大を卒業後、2年間のOL生活。1997年9月7日渡加。カモーソン・カレッジを経て現在はUniversity of Victoriaで女性学を専攻中。
The English Language Centre (ELC) での体験

私がUVIC(University of Victoria:ビクトリア大学)付属の語学学校ELC(The English Language Centre)に通学したのは、1997年の9月から1998年の6月までの約10ヵ月だ。3学期間をそこで過ごしたことになる。ELCは、カナダ人学生と同じ環境で勉強でき、UVICの諸施設(図書館、体育館等)を使用できるという利点を備えているが、プライベートの語学学校と違って、課外授業は1学期に1回のみ。レベル別に州立博物館やビーチに行って学生同士の交流を深める。学期の終わりには必ずホテルでファイナル・パーティを行い、全員がフォーマルに着飾って出席する習慣になっている。

ELCは実力により5つのレベルから構成され、レベルによって午前か午後かが振り分けられていた。月曜日から木曜日まではレベル別の授業を行い、金曜日は全員がレベルとは関係なく、エレクティブ・クラス(選択科目)のなかから好きなものを受講できた。エレクティブ・クラスには音楽からTOEFLなどのアカデミックな講座まであった。エレクティブ・クラスは午前中行われ、午後は学生会館にELC生徒用のフリー・コーヒーとクッキーが用意されて、クラス外の生徒と交流できる時間となっていた。これはコーヒー・ハウスと呼ばれていたが、コーヒー・ハウス以外にカンバセーション・パートナー・プログラムと呼ばれ、日頃はなかなか知り会う機会のないカナダ人学生との交流を図る制度があった。このプログラムに参加している大半のカナダ人学生は日本語や中国語などの外国語を専攻していて、私たちが英語を教わる代わりに、彼らに自分達の母国語を教えるというエクスチェンジ・プログラムだった。

ここで一つ注意しておきたいのだが、こうしたプログラムには、異性との交流や借金を目的に参加する質の悪い学生がいる場合もある。もちろん大多数の学生は純粋に語学を習うために参加しているのだが、語学にハンディキャップがある留学生は、時としてこのような問題に遭遇する場合もあるということを、心の片隅で覚えていてほしい。

ELCの授業は、各レベルとも先生が2人いて、最初の先生が1時間半の授業を行い、休憩をはさんで、次の先生が1時間半の授業を行う。私のクラスでは、1人の先生が単語や文章の筆記と読解を主に教え、もう1人の先生が、習った単語や文章をいかに会話の練習に使うかに重点をおいてクラスを進めていた。
もちろんクラスのなかでの母国語の使用は一切禁止だった。だからみんな辞書を片手に…と思うだろうが、クラスに持ち込みの許された辞書は英英辞書のみ。単語力のない私は、英英辞書に頼るより、先生の話す英語を真剣に聞くしかなかったのを覚えている。

最も印象に残っているELCのクラスは、最初に受けた200レベルのクラスだ。 200レベルとはELCで一番下のレベルだ。時差ぼけで…と言い訳をしたいところだが、その当時の私の英語力はカナダ人に言わせると1歳ぐらいの赤ちゃんと同じ。今振り返ると、よくカナダに留学に来たものだと我ながら感心してしまう。

先生の名はクリスとローリー。クリスは、ジーンズをはいてギター片手にクラスに入ってきた。ローリーはかわいいおばあちゃん先生。習う内容自体はとても簡単なのだか、日本の英語教育ではお目にかかることのない会話中心の授業だった。

外国語を習うと、それぞれのお国柄が出る。
アジア人生徒の単語力や文法知識は他の国の生徒に比べてかなり優秀だが、いざ会話になるとラテン系の生徒の方が断然優れている。クリスとローリーも経験から、国民性による生徒一人一人の弱点を見抜いていた。はにかみ屋のアジア人生徒たちに対しては発言するように求める一方で、文法の不得意なラテン系の生徒に対して文法の宿題を多く出すといった具合だ。

10ヵ月間のELCでの経験は決して楽ではなかった。毎日が勉強だった。英語の勉強だけではなく、文化の違いに慣れ、他の国の学生と交流して、外国で暮らすことの勉強だった。楽ではなかったが、全てが新鮮だった。日本だけで暮らしていたら習えなかったことを、たくさん経験した。しかし、私はこのELCを離れることを決心した。それは次回お話ししよう。