連載コラム記事
  カナダに住む ワーキング・ホリデー追跡日記

ことばと

マイカナダ

和田 典子(わだ・のりこ)

横浜市出身、1970年生まれ。上智大学文学部史学科卒。出版取次会社、弁護士事務所、外資系銀行等勤務を経て、2003年夏よりカナダ・バンクーバーへ留学。現在、サイモン・フレイザー大学(SFU)で通訳者養成講座を受講中。趣味は料理と、紅茶を片手に時代劇(和物・洋物問わず)を見ること。

カタカナ語は曲者
日本語通訳者は楽をしている?

通訳講座の級友がある日こんなことを言った。
中国語通訳クラスとの合同通訳実習の後で、中国語クラスの人から、『日本語は英語を翻訳しなくて良い場合があるから楽だろう』と言われた。カタカナのことを言及したのだと思うけど、どう思う?

中国語では外来語は翻訳し中国語に置き換えなければならない。私たちが外来語をカタカナで表すように、英語の発音に漢字をあてただけで中国語にする、ということは、人名・地名や商標でない限り原則としてやってはいけないらしい。有名な例では、「コンピュータ」は中国語では「電脳」、「トイレット・ペーパー」は「手紙」。「カナダ」が「加拿大」となるように、翻訳のしようがなくて音だけを移す例は、全体に比べればごく少数だ。このため、「英語を日本語に訳すことは中国語に訳すより簡単だ」、と言うことらしい。

外来語をカタカナで表記するという日本語の機能は、通訳者にとっては曲者でもある。通訳をする時にカタカナに助けられることも多い。日本語としてすでに認知された外来語は枚挙にいとまがないし、通訳中になじみのない英語に遭遇してとっさに訳語を考えつけない時は、とりあえず聞いた通りカタカナにしておき、後でその概念を説明する、というように処理することができる。
「アイデンティティー・クライシス、つまり、自分が何者であるのか、という認識が揺るがされるということですが…」という具合に。
そういう意味では、日本語は楽だという指摘は正しいのかもしれない。

近年は、コンピュータやインターネット用語の英語が怒涛のように流入しており、それらに対する対応する中国語の統一訳語の選定もが全速力で行われているらしい。それに追いつくには追いつくための通訳・翻訳者の努力は大変だろう。それに引き替え日本語では、カタカナ語の氾濫が言われて久しいように、一つの文章をほぼカタカナ語のみで済ませてしまうことも可能だ。通訳者が楽をしようとすればできてしまう。
「最近はグローバリゼーションのためボーダーレスがいっそう進んでおりまして、ワールドワイドなベンチャーのマーケティングでのコラボレーションがトレンドであると申せます」。ただし、これでは聞いている方は何が何だか分からないだろうから、決して良い通訳ではない。だから、カタカナ語は、便利だが、ともすると一方で怠惰な通訳者に陥るなってしまう危険をもはらんだ諸刃(もろは)の剣でもある。

通訳者=日本語の担い手として

私たち通訳講座の日本語学生の信用のために書いておくと、気になるカタカナ語に遭遇するたび、翻訳するとしたらどうか、どういう状況ならカタカナのままでよいか、など先生と共に意見を出し合って考えている。
日本語に既に定着しているので使用可の場合(「カルチャー・ショック」「パネル・ディスカッション」)、一般聴衆には不適切でも、特定の業種の人になら使える場合(「ツー・バイ・フォー工法」、「クロマトグラフィー」)、一般聴衆でも世代により使い分ける場合(「カテゴリー」と「範疇」、「レセプション」と「受付」)、などあらゆる状況を想定する。うっかりカタカナ語を使いすぎると先生に注意される。だから通訳実習で私たちがカタカナ語を発したとしても、それはある程度事前の選別作業を済ませ、さらには現場で、カタカナにすべきか否かをとっさに判断した後でのことだから、ただ楽をしている訳でもないのだ。

ところで昨年、国立国語研究会が、使用頻度の高いカタカナ語であっても、公文書では日本語に置き換えることを推奨するとして、そうした言葉の一覧表を発表した。
例えば「ログイン」「ミスマッチ」「タスクフォース」などだ。さらにこの一覧表には、調査を元に算定した「60歳以上の人がその言葉を耳にした場合の理解度」や「年齢を問わない全般的な理解度」の数値が記載されていて、通訳や翻訳に関わる人間にはひじょうに参考になる。この一覧表に推奨された翻訳例を見ると、たとえ耳慣れた外来語であっても、やはり日本語に置き換えられた方がすんなり理解できる気がする。先述の三つの言葉の翻訳は、順に「接続開始」、「不釣り合い」、「特別作業班」だ。

こうした置き換え推奨の動きがあるにせよ、多くの言葉がカタカナのまま日本語に定着していく傾向は今後も変わらないだろう。それでも通訳者を目指す者としては、カタカナ語には慎重でありたいと思う。通訳や翻訳という作業は、新しい概念や思考を日本語の枠組みのなかへ紹介するということでもある。ヨーロッパ言語とまったく違う語族に属す日本語が、明治以降西洋の概念を自在に取り入れて来られたのは、漢語と和語の蓄積を踏まえて翻訳語をたくさん作ってきたためだと思う。今では当然のように使われている言葉も、実は近代以降作られた翻訳語であることが多い(「自由」「献身」など)。
通訳者はとっさの危機をカタカナ語で救われることはあっても、その後でそれをどう翻訳すべきだったか、振り返って考えるべきだろう。その場を切り抜けるだけの通訳者ではなく、日本語がより多くの事象を表現できる豊かな言語となるよう貢献できる、「言葉の担い手」たる通訳者になれればと思う。

ところで最後に、私のお気に入りの中国語の翻訳語を紹介しよう。「彩絵玻璃」。何を表す言葉だろうか?
答えは、「ステンド・グラス」。お見事!と言いたくなるような翻訳だ。日本語も、負けずにもっと知恵を絞って語彙を増やそう!