連載コラム記事
  カナダに住む ワーキング・ホリデー追跡日記

ことばと

マイカナダ

和田 典子(わだ・のりこ)

横浜市出身、1970年生まれ。上智大学文学部史学科卒。出版取次会社、弁護士事務所、外資系銀行等勤務を経て、2003年夏よりカナダ・バンクーバーへ留学。現在、サイモン・フレイザー大学(SFU)で通訳者養成講座を受講中。趣味は料理と、紅茶を片手に時代劇(和物・洋物問わず)を見ること。

Across Cultural Borders - 通訳者は文化を越える

8ヵ月間にわたる大学の通訳講座も終盤に入った。これから一連の卒業試験が始まる。これまでの勉強の総仕上げとして、良い結果が出せるように気合いを入れて臨まなければ、と思うと緊張する。プログラム終了を控え、最近は各科目の課題や実習も、以前よりも高度なものになってきた。今回は、そのなかでも言語面の難易度が高かったばかりでなく、通訳者としての心構えにも及んだ深い内容だった実習についてお話したい。

この日の通訳実習は、バンクーバー在住のジャーナリスト、クリス・ウッド氏を講演者に招いて行われた。氏はカナダの代表的なニュース雑誌「Maclean's(マクリーン)」の編集主幹を長年務めたほか、海外特派員、ラジオやTV解説者、ベストセラー小説の著者などの多彩な面をもつベテラン著述家だ。
講演でウッド氏は、異文化間コミュニケーションについて語った。ここで、氏のスピーチの一部を抄訳で紹介してみたい。
言葉巧みでウィットに富んだ原スピーチを再現するのは難しいが、拙訳で少しでも雰囲気を味わっていただければと思う。

「記者稼業で最も幸運だと思うのは、取材を通じて多様な文化圏を旅し、そこに生きる人々と交流できることです。ひと口に文化(Culture)といってもさまざまな意味がありますが、一般的には、人間の行動や生活の中に一定のパターンとして存在し、世代から世代へと受け継がれ、一つの人間集団を独自のものと特徴づけている事象を、広く文化と総称することができます。「文化人」という言葉に表されるような、狭い意味での知識や文芸だけを指すものではないのです。……朝食にパンとコーヒーを選ぶか、それとも中華粥(かゆ)か、またはご飯と味噌汁を選ぶかも文化の違いです。家庭で問題が起こった時、スミスさん、陳さん、田中さんの家でそれぞれ対処の方法が違うのも、各家庭の文化差の表れと言えます」。

「大雑把に言えば、私たち人間は、どこの国や民族出身であろうと、生物的にはほぼ90%同じ存在です。残りの10%の遺伝的、文化的違いによって、それぞれの独自性が生まれるのです。誤解の起きる原因はほとんどの場合、民族や種族上の違いではなく、集団ごとの文化の違い…つまり、歴史をどう解釈するか、とか、社会構造や政治の仕組みの根底にあるもの、もっと身近にいえば普段の行動様式の基礎となる物の考え方の違いに起因します。紛争や戦争の場合には、自分の命をかけたり、相手を殺傷してまでも守る価値があると信じる信条が、お互いに違うのです。また、同じ国や地域の中でも、経済的・社会的階層の違いによって、行動や思考のパターンが異なり、それが摩擦や誤解のもとになることもありますし、企業文化や、年齢による文化の違いもあります。そう考えると、世の中で起きているあらゆる出来事の原因は、文化の違いと、それをどう理解するかという問題から生じているのだと言えます」。

「アメリカとカナダの違いを例にとると、似たように見える二つの国も、実は家族観、宗教観、プライバシーに関する意識などで大きく異なっています。ある調査で、家父長的な父親の権威を認めるか、という質問をしたところ、アメリカは賛成が多数だったのに対し、カナダでは反対の方がずっと多かったのです。自分の信仰について公言するのはアメリカでは普通と見なされますが、カナダでは、個人的なことなので他人との会話の話題にすべきでないという考えが主流です。公とプライバシーの境界の認識も大きく違います。例えば近所で発砲殺人事件があったとしたら、アメリカではおそらく、多くの人がTVカメラの前に立って、事件に対する自分の考えを積極的に世間に知らせたいと思うでしょう。カナダでは、家族や友人同士集まって、ドアを閉じて内輪だけで話しあうのが普通の反応です。また、政治家など公人の私生活に対する態度も両国では対照的です。こうしたプライバシーの境界に対する意識は、初対面から本当に打ち解けるまでにアメリカ人とカナダ人とでかかる時間の違いにも影響していると思います」。

「ただし忘れてはならないのは、このように一般化された文化的差異の中に一定の真実があるにしても、ステレオタイプ化(固定観念化)の陥穽(かんせい)にはまってはならないということです。人格の形成には個人個人で異なる体験が作用しているのですから、出自や地域だけを根拠にある人の特性を判断すべきではありません。(中略)・・・また、ジャーナリストのような、一つの場所での出来事を別の場所の読者に伝えるというインターフェース(相互伝達)の役割を担う、いわば文化の越境者は、自分ではどんなに文化的差異への配慮を示したつもりでも、取材の対象や読者には違う読み方や解釈をされてしまう、つまり無意識のうちに対象や読者を傷つけてしまう可能性もあるということを、常に心しておかなくてはなりません。通訳や翻訳業にも同じことが言えると思います。文化の違いを違いとして認識・理解することと、自分の文化と違うから間違っている、と決めつけてしまうこととの間の線引きはひじょうに微妙なものです。一歩間違って他文化を糾弾してしまわないよう、文化の越境者たる記者や通訳者は、いつも危うい線の上を渡っている意識を持つべきでしょう」。

異文化コミュニケーションの大先輩であるウッド氏の言葉は、卒業後それぞれの場で、多文化の狭間で働くことになる私たちへの貴重な指針でもあった。